恩師、小原秀雄先生の旅立ち

4月下旬、恩師の小原秀雄先生が老衰により他界されました。

NPO法人サラマンドフの会で会員向けに発行しているニュースレター(6月発行)に弔文を掲載しました。

それより抜粋改稿してアップします。

なお9月には小原先生が設立した団体のNPO法人野生生物保全論研究会が主催のオンライン追悼会が予定されています。


*****************************************************************
いつかはこの日が来ると思っていましたし、いつかはこの日を受け入れなければいけない、と頭では十分にわかっていたのですが、ついにその日が来てしまいました。

小原先生と高校生の時にその著書で出逢い、大学1年の時に研究室に足を踏み入れてからアフリカで一緒に過ごした日々、今日に至るまでの姿が早送りの映画のコマのように、次々と頭の中を駆け抜けて、もう先生はこの世にいないのだ、と、寂しさがこみ上げてきました。

永眠の後のお別れの会には出席できませんでしたが、「中村には最期を見せたくないからな」と、先生が、いつもの冗談を交えて微笑んで、語りかけて下さっているように思えたのです。日本で先生の最期に会えなかったことは、ケニヤで野生動物たちとともに弔ってくれ、とバトンを渡されたということなのだ、と思うことにしたのです。

先生から渡されたバトンには、出逢いから今に至るまでの年輪がひとつずつ刻まれています。今日の私の理念や実践の源流に小原先生の存在があります。

アフリカに関心を持ってから、動物の世界へと移っていくプロセスを自然体で受け入れられたのは、自然科学から社会科学まで総合的に、幅広く理論的な学問を展開する小原先生の門下生ならではのことでした。

動物の観察が大好きで、それが昂じて動物学者になった小原先生とは異なり、私はアフリカを入り口にして動物へと視野を広げていきました。さらに私の関心は、動物とは距離を置いて、対象は自然ではあるものの、社会的な事象へも拡大していきました。

その接点にある象牙の問題を研究テーマとして選ぶと、先生はほっとしたようでした。大学の研究室にいた頃、アフリカゾウとクロサイが密猟で激減していることが報告され始め、象牙の最大消費国として日本が国際的な非難を浴びているにもかかわらず、1975年から発効したワシントン条約に、日本は批准していない時期でした。

先生は、国際的的な自然保護にも先陣を切っており、批准を急ぐようにと繰り返していました(日本は1980年に批准)。そうして、アフリカの大型野生動物を保護することが、地球生態系にとっていかに重要かを説いていました。

そのまま小原先生の助言どおりに、象牙の消費者意識の研究などで研究者として進む道もあったのですが、野生のゾウを追いかける夢が消えない私は、小原先生の反対を押し切って、アフリカ放浪のひとり旅に出ました。情熱のみで暴れん坊の弟子に、先生は驚かれていましたが、見捨てることなく指導して下さいました。

小原先生を通した多くの出逢いが、私のケニヤでの人生を決定づけました。とりわけ、ケニヤでの父として慕ったチャベタ氏(2020年逝去)とその家族、そしてケニヤでの恩師となったオリンド博士。

チャベダ氏とオリンド博士は先生の無二の親友でした。小原先生は毎夏アフリカに1ヶ月ほど滞在していましたが、私がケニヤでフィールド調査を始めても、そのペースに変わりはなく、親友のチャベダ氏、オリンド博士らと過ごす時間をとても大切にしていました。

私のフィールドにも、毎年訪問されて、動物のこと、社会のことなど、広範囲に話をされて、雑談の中にも学べる時間を持てました。

私がどこまでどのようにやるのかについては、良くも悪くも、先生の想定外だったようです。私の関心がコミュニティーの支援に向き始めた時にも、また反逆児が暴れ出した、野生のゾウから離れてしまうのではないか、と心配なさっていました。

心配をかけ続けた、不肖の弟子ながら、小原先生から私の中に蒔かれた種は、枯れそうになったり、多様な方向に広がりながらも、いまだ成長を続けています。理論と実践の融合と結実までその年輪を重ねて、小原先生から渡されたバトンが、私を経て次の世代へ渡されるのを、天国から見守っていて下さい、と語りかけつつ、希望と微笑みのある喪に服しているのです。

 

2012年、ツァボ・イースト国立公園にて。

小原先生とオリンド博士。 最後のケニヤ訪問となった。

サラマンドフ・ニュースレター No.24 より抜粋改稿